フォーク歌手の高石ともやさん(66)は、一昨年秋に大腸がんと診断された妻、てるえさん(64)の闘病を支え続けています。家族の合言葉は「ピンチの時こそ陽気に行こう」。マラソンにも挑戦し続けている高石さんは、てるえさんの病気を機に、共に「歩く」ことを始めました。
あの日の1か月前まで、てるえさんは、ジョギング大会に出場するほど元気でした。「腰が痛い」と言っていたのですが、それはランナー特有の痛みだと思っていました。
「あの日」とは、2006年9月、病院で診察を受けたてるえさん、長男と3人で診察室に呼ばれた日のこと。「覚悟してください。もって6か月かな」。がんの権威とされるベテラン医師はあっさり、そう告知した。てるえさんが「治るんですか」と聞いた。医師は「うーん」と口ごもった後、言い切った。「治りません」
フランスに住んでいた息子がたまたま帰国していました。診察室を出て、病院のソファに座り、3人で話しました。そのとき、てるえさんが言うんです。「ピンチの時こそ陽気に行こうが私たちのキャッチフレーズでしょ」と。
そうだ、これからの人生をどう生きるかだけを考えよう。明るく生きるしかないんじゃないかと思いました。3人の意見は一致し、その後、娘を交えて家族全員で二つのことを確認しました。「病気のことは明るく話そう」「日々の病状に一喜一憂しない」
セカンド、サードオピニオンを求め、その後、三つの病院を回りましたが、結論は変わらず、その年の10月、手術に踏み切りました。
2人の出会いは1966年。立教大学の学生だった高石さんが初めてギターを手に歌った大阪のフォークソングの集会で、銀行員のてるえさんが会場にいた。2人は結婚。68年に「受験生ブルース」がヒットする。てるえさんは、経理も含むマネジャー役をこなし、アスリートとしての高石さんも支えた。
結婚する時、「僕が孤立してもガンバレと言ってくれる応援団になってほしい」と頼みました。それと「むちゃだなと思ったら、3回まで反対してくれていいよ」って。でも「やめて」と言われたことは一度もありません。音楽活動もマラソンの時も、いつもそばで応援してくれました。
今度は、僕の番です。
いまは抗がん剤による治療を続けています。病院の送り迎えや担当医師との話し合いなどは、息子がやってくれています。病気の状態を示す数値が悪くて、てるえさんが落ち込んでいると、娘が「一喜一憂しないって決めたでしょ」と一喝することもあります。落ち込まないよう、家族で見守るようにしています。
手術から数か月でてるえさんは、体力をつけるためウオーキングを始めました。僕も並んで歩き、そして話します。体調に合わせて、日によって1時間、週に5日ほど歩いています。
てるえさんもホノルルマラソンを10回以上経験しているランナーですが、一緒に走ったことはありませんでした。この40年、こんなに話したこともありません。
歩く時は、お互い愚痴は言いません。手術から1年だね、生き延びたねとか、空が青いねと。「ありがたい」「よかった」。そう話すだけです。
それでも10回に1回は「あと1年もつかな」と弱気な言葉を聞くこともあります。そんな時は「あっ、あした生協に行かないと」、なんて混ぜっ返して。とにかく、病気であることを忘れさせるぐらい楽しい空気にしたいんです。てるえさんは「いいこともあれば悪いこともある。ニッコリ笑って乗り越えないと」と気を取り直してくれます。
昨年の桜の季節のころから、てるえさんは、ウオーキングで背負うリュックにメモ帳を入れるようになった。見たもの、感じたことを五七五で声に出す。
<闘病の わたしを励ます
私に「看病」「介護」という意識はあまりありません。家族へのケアは、施すのではなく、寄り添うことだと思っています。家族は「
治るかどうか分かりません。でも、病気をしょって明るく生きる。家族は共にいるだけでもいいということを発見できました。
最近のてるえさんは目に輝きが増し、声にも張りが出てきています。12月のホノルルマラソンに一緒に行きたい。それが今の目標です。(聞き手・大浦哲)
たかいし・ともやフォーク歌手。1941年、北海道生まれ。66年デビュー。68年に「受験生ブルース」がヒット。ギター1本で全国を歌って回るスタイルを貫く。アスリートでもあり、81年に日本初のトライアスロン大会優勝、米大陸横断マラソン完走、ホノルルマラソン31回連続出場中。
(2008年8月10日 読売新聞)

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